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| JOHN LENNON ROCK'N ROLL 1975 |
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すべてのロックンロールはここにはじまり、ここにたどりつく。 ROCKを世に広めたのがビートルズなら、その解釈の幅を広げたのがジョン・レノンである。 ここにはジョンが若かりし日に慣れ親しんだ15の楽曲が収録されている。1曲を除きカヴァーで占められた内容ながら、歌声や息遣いから、叫び、囁き、喜び、怒り、泣きに至るまでのすべてが生々しい。その生々しさを魂とか精神と表現するのは安直すぎるだろうが、それをどう捉え、どう伝えていくのかが大切だ。 いつの頃からかそれをROCKと呼ぶことにした。 ROCKを知らない人がいれば、「これだよ」と言って、このアルバムを差し出す。あとはあなたがどう感じるかだ、と。 楽しいですか? 悲しいですか? 切なく苦しい思いがしますか? それとも...。 1975年、ジョン・レノンはアルバム「ROCK & ROLL」を発表したのち、一時的に音楽界から去る。5年後の1980年に復帰するが12月8日、ニューヨークの自宅前で凶弾に倒れる。 |
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| 甲斐バンド この夜にさよなら 1977 |
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スポットライトはどこかのスターのもの 陽のあたらないところを僕は生きてきた 降りそそぐ白い月明かりにさえ、肩をすぼめては目を閉じてきた 白い月明かりのその裏側で僕はゆがんだ顔を洗った 白い月明かりのその裏側で涙のかけらを洗い落とした この曲を書き上げたとき、甲斐よしひろは泣いたという。きらびやかなステージの上で、華やかなスポットライトを浴びるシンガーの顔は、命を削り、身を削って、地べたに這いつくばるようにして生きている自分のもうひとつの顔。格好よくなんかない。腰まで泥につかり、泥まみれになりながら、ただ歌いつづけるだけ。もう吐くものがない。これだけ書いたんだからいいだろう。それでも音楽は止むことなく、旅は明日もつづく。ボロボロになっていく自分の中で「最後の夜汽車」は生まれた。 甲斐よしひろ25歳の歌声である。 |
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| MADONNA LIKE A PRAYER 1989 |
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よくわからないけど「とにかく凄い」と思わせられることがある。 1993年の春、仁川の芝の上、女性の名をベガと呼ぶ。彼女の宿命は勝利。誰よりも速く走り、最初にゴールすること。可憐さや初々しさを捨て、彼女は気高く豪快にターフを駆る。常にライバルの先を行った。彼女たちの欲しいものはすべて先に手に入れ、彼女たちが求めた多くを自分だけのものにしていた。そして当然のように勝利をもぎ取ったとき、美しさや幸福以上に光り輝く「凄さ」を携え、彼女は囁いた。 「最初から、そうするつもりだったのよ」 私は衝撃を受けた。「とりあえずすげえ」と、訳もわからずに。 マドンナは凄い。 そう思いはじめたのは、このアルバムが出た頃からだ。SEXYな面も毒々しい面もぜんぶひっくるめて、「何だか凄いな」と思わせられたものである。 そこに感じた「凄さ」は、きっとベガのそれと同じだ。 マドンナを見るとベガを思い出す。 あのとき私を無条件で全面降伏させた彼女も今や母である。 |
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| AUTEURS NEW WAVE 1993 |
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いかなる人間も引き際が肝心だ。それが人前で何らかの行動を示し、影響を与える人物ならなおさらのことである。長島茂雄しかり、ロッキー・バルボアしかり。 「アルバム3枚も作れば十分だろう」と言ったルーク・ハインズは実に潔かった。 ネオアコの狂気とグランジの青さが同居したオトゥールズのファースト・アルバムで、この男は世に出る。馴染みやすいギターサウンドと新鮮なメロディーが印象的なバンドだが、何よりもルーク・ハインズのスカスカぶりが脳天を直撃する。力みのない声・・・というより腑抜けた歌。実在さえ否定するかのような、つかみどころのなさばかりが目立つこの男、四方八方から太陽に照らされても、決して地面に影は映されないだろうと思ったほどである。 だがアルバムを繰り返し聴きつづけていると、気になって仕方ないのだ。完璧とも思える音楽に裏打ちされているのは自信じゃないのか、おいおい、と。空を切っていると思われた拳は、もしかすると最初から空を切り裂くために握られたものだったのか。そう感じてからはオトゥールズの音楽が、世間の流行ものグランジギタードラッグフニャフニャロックとは一線をひいた気高いものに聞こえた。そうして私はこのバンドの虜になった。 3枚目のアルバムを発表後、オトゥールズは解散する。最終アルバム「AFTER MURDER PARK」のさりげない終焉と、ルーク・ハインズの「もう十分だろう」という台詞が実にキザでよかった。ダイナマイト・キッドの「心配するな、俺はテリー・ファンクじゃねえ」という名言に匹敵するほどの潔さがあった。ロックはこうでなきゃいかん、と思ったものである。 だからよぉ、復活なんかするんじゃねえよ! あげくの果てに「解散なんかしていない」だと? コラコラ。 |
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| 松田聖子 ユートピア 1983 |
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名盤である。 当時、三度のメシよりROCKが大好きな丸坊主中学生で、こと音楽に関しては硬派ぶっていた私である。STONESだ、DOORSだ、SPRINGSTEENだなどとほざいていたイヤな中学生である。友達もそんな連中ばかりで、ROCKという落とし穴に深く落ちていくことに自己陶酔してしまうようなアホ共である。「聖子ちゃんはイイ!」など死んでも言えたものではなかった。 しかし何よりもよく聴いたアルバムは聖子ちゃんの「ユートピア」だった。武骨で愛想のないROCKの音に慣れてしまうと、このキラキラとした涼しい音に妙な心地良さを憶えたものである。この良さを少しでも知ってもらいたくて、ある日、私は部屋の片隅にさりげなく聖子ちゃんのレコードを立てかけておいた。来客ROCK少年K君は目敏くそれを見つけ、みのもんたのような上目づかいでニヤリと笑った。 「これも借りていい?」 「次、俺ね」とROCK少年M君も手をあげた。 そんな風にして聖子ちゃんは我々ROCKアホ共に浸透していったのである。何だかんだ言っても、みんな好きなものは好きだし、気になるものは気になるのだ。見栄や体裁に邪魔されて出会いを失ってしまう方がアホである。 『「マイアミ午前5時」は名曲だよな』と言えば、きっと 『いや俺は「セイシェルの夕陽」の方がいい』と返してくる。こういうやりとりができる友達がいたのも、音楽を素直に聴けるようになった要因だ。 現在ではアイドルとアーティストの境界線はなくなってしまったが、83年当時、明らかにアイドル側に位置づけられた作品である。しかしアーティストと呼ばれた人たちの作品以上に素晴らしいアルバムだ。松田聖子は日本音楽史に残る名盤をもっとも多く世に送り出した、アイドルというアーティストなのだ。 |
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| Hi-STANDARD MAKING THE ROAD 1999 |
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「こんなのアリかよ」 「アリだよ」 |
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| JULES SHEAR GREAT PUZZLE 1992 |
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音楽を好きになる要素なんて無数にある。 サウンドに耳を奪われる。詞やメッセージに共感する。ヴィジュアルがカッコイイ。エピソードが気に入る。アーティストの人生観に惚れる・・などなど数え上げればきりがない。でも最も直接的なのはメロディの良さではないでしょうか。 ディランの曲を他人がカバーすると妙にメロディアスで驚いたこと多々。ポール・サイモンの「いちばん気になるのはメロディ」だという言葉も意外。人間は美しいメロディが聞こえると幸せな気分になれるのだ。考えればツェッペリンもマイケル・ジャクソンもニルヴァーナも、美しいメロディの持ち主だった。 ジュールズ・シアーという野暮ったいおっさん。 究極のメロディメイカーを探すと、この人物にたどりつく。 ギター初心者でも間に合う単純明快なコード進行ながら、ひとつひとつ音符がつなげられていくと、いつの間にか誰も真似のできない素晴らしいメロディが生まれている。どのアルバムを聴いても美メロの宝庫である。新しさや懐かしさ、捻りうねり、その他ありとあらゆるメロディを自在に操れる旋律おじさん。彼のことをそう呼ぶ。 |
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| RICKIE LEE JONES PIRATES 1981 |
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小学生の頃、ガムシャラに自転車をこいで知らない町へ行くのが好きだった。日曜日の朝早く、いつもの場所で友達と待ち合わせ、ポケットの小銭を確認してから山を越えた。目的地までノンストップ。もちろんサドルには座らない。ずっと立ち漕ぎだ。ブレーキをかけるのも惜しむほど全速力で自転車を走らせたものである。 ただ僕達は知らない場所に行きたかっただけだ。 そこにはいつもと違う何かがあるような気がしたし、いつもと違う自分や友達がいるようにも思えた。 途中で転んだり、道に迷ったり。 馬鹿みたいに笑ったり、ムキになって喧嘩したりもした。 見知らぬ風景の中では人間は素直になれる。だからただ自転車をこいでいるだけなのに、とても楽しかった。どこにでも売っているジュースやパンがとてもおいしかった。川辺の釣り人はみんな優しかったし、焚き火はいつまでも僕達を放さなかった。その日曜日は二度と訪れない僕達だけの日曜日だった。 「心の絆」 イントロのピアノの音色に目を閉じると、あの頃の風景が脳裏に浮かぶ。大人になってもうどこにも行かないと思っていた心を日常から別の場所に運んでくれる。 近くにあるのに遠い。 だがふとしたことでそれはすぐそばにも感じられる。 だから心の中の景色はいつまでも色褪せないのだ。 |
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| 頭脳警察 1 2001(再発) |
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考えようによっては世の中はいつもクソと言える。 しかし世の中がクソだからといって、クソだ、馬鹿だ、やってられない、などと言い出したら人間は終わりである。じゃあやめてしまえよ、どこかへ行けよ、死ねよ。それぐらいのことを世は平然と言う。言い争っているうちに人間までもクソになる。人間はクソに対しても毅然と人間らしく対峙すべきなのだ。両の足で大地を踏みしめ、しっかり前方を見つめ、伸ばした手に何かをつかもうとするのなら、「クソだ」と言う前に自分を確かにしておくことが先である。 ブルース・スプリングスティーンという人間は、裏通りの片隅から鋭い視線で世界を見つめつづけては自身を育てた。機会を待ち、絶好のタイミングを逃さず、至近距離からショットガンを放つようにアメリカ人の心を撃った。裏通りの若者を国民的英雄に変えたのは1曲のロックンロールだ。彼は「クソだ」などと歌うこともない。 頭脳警察。 マシンガンのように矢継ぎばやに吐き出されるメッセージと大砲並みの衝撃。30年前の我が国にもたらされた伝説は21世紀になって、ようやくその全貌を明かした。ここで伝えられる緊張感が時代背景を物語る。現代に照らし合わせることはできない。リアリティがない。若者が携帯電話から目を逸らすことが出来なくなり、ブラウン管のニュースがコメディ化していく時代に、男達の「叫び」は居心地悪そうだ。だからといって無理に頭脳警察を持ち上げようとも思わない。ただ自分達を確かにしようとした男達のもがき苦しむ姿は、クソだ、馬鹿だ、やってられない、などとほざいている甘ちゃんたちの緊張感とは違うということをハッキリさせておきたかっただけである。 |
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| BRIAN JONES JAJOUKA 1971 |
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初期ストーンズの中心人物ブライアン・ジョーンズの死後、陽の目を見たソロアルバム。彼がモロッコの伝統音楽を持ち帰り、スタジオで電子加工したものである。こう書けば何てことはないが、私の青春の数パーセントはこのアルバムを探すことで消えていった。 西新宿が約束の地なら原宿ギミーシェルターは聖なる地といったところ。西へ東へ旅するごとに、中古レコード店の扉を叩いたものである。最初に目にしたのが町の名すら憶えていない大阪のはずれ、ひなびたスーパーの片隅で催されていた中古レコード市であった。国内盤帯付キズ無し3000円。即買い。探し始めて約2年という歳月が流れていたことを知り少し考えさせられた。 それから私とブライアン・ジョーンズの追いかけっこが始まった。入手したからいいというものではない。気になるのだ。中古屋に行くとどうしても探してしまう。見つけると狂喜乱舞、もう買う必要ないのに買ってしまう。レコードだけに留まらず、Tシャツ、ポスター、パネルなど、種類も増えていく。私の部屋はブライアン・ジョーンズ博物館と化していくのであった。 現在、6枚の「JAJOUKA」を所有している。 えっ、聴いたのかって? はい。一度だけ、ね。 だってモロッコの音楽なんて全然興味ないんだもん。 |
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| 宇多田ヒカル FIRST LOVE 1999 |
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80年代の終わり、自分が日本人であるということを痛感させられた出来事がある。ストーンズのニューヨーク公演を観るため、ダフ屋からチケットを購入しようとすると、相場150から200のチケットが「お前は日本人だから300」と言われた。私の拙い英語力でも意味を理解するのは簡単だった。なめられていたのである。しかしそれ以上にやるせなかったのは、私には「Why?」と聞き返す余地が与えられていなかったことである。私がどのような人間で、いかなる理由で、その場にいようとも、彼等にとって私は日本人という特別な存在だったのである。生まれて初めて、自分が「JAPANESE」と形容される人間であることに少し嫌悪を憶えた。 日本人が作り出す音楽には日本人特有のメロディやサウンドがある。海外から流行りの音を取り寄せても、向こう側で現地のミュージシャン、スタッフと製作しても、それらは日本の音楽だ。アーティストが日本人なのだから当然のことである。そこで日本人らしさを強調するのも、脱日本を企むのもよかろう。しかしふと思う。「JAPANESE」という形容で自分を護ってから、カッコイイことを言わないでくれよ、と。それは外の世界に対して、より高い壁を築いているだけでしかないのだから。あのときカッコ悪かった私にはわかるのだ。 20世紀末、日本音楽界に彗星のごとく現れた宇多田ヒカルは、とてもカッコイイ。日本人らしからぬメロディセンス、サウンドに絡むひとつひとつの鋭い言葉、何よりもその音楽を奏でる彼女のスタンスが大好きだ。日本もアメリカもない。内も外もない。 私は私。これである。 それをこの何だかんだある業界でアッケラカンとやってみせる人である。気にせずにはいられない。800枚でも800万枚でも関係ない。常に「NEXT ONE」を期待してしまう。 2002年、宇多田ヒカル、デフジャムと契約。 この「JAPANESE」にとっては、近所のコンビニにでも出かけるぐらいのことだろうか。 気楽にね、ヒッキー! |
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| 佐野元春 VISITORS 1984 |
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小さな頃かけっこでは負けたことがなかった。 運動会では常に一等賞だったし、お巡りさんに追いかけられても捕まったことはない。一生懸命に走らなくても、私の前を行く人間など現れなかったから、あまり全力疾走したことがなかった。 競争という概念を失っていた私に、やる気を起こさせたのはやはり敗北だった。当然、上には上がいるもので、高校の陸上部では部員全員が超人に見えたものである。先輩に勝てないのならまだしも、同級生にも勝てない。努力と忍耐の積み重ねは、それなりに私を成長させたが、絶対能力をひっくり返させるまでには至らなかった。最終的には「そこそこやれる奴」と評価され、期待も結果も「それなり」のものだった。そして私は考えた。普通に走ったのでは勝てない。ならば違ったやり方しかない。負けたとしても同じ敗北を繰り返すよりマシだろう、と。 奇策。 周囲には私の姿は滑稽に映ったらしい。腹立たしくもあったようである。実際、私は先輩に説教された。「どうしてあんなことをしたのだ」と。 私は集団の最後方を独りでのんびりと走った。 子供の頃とは正反対に、多くの人々の背中をじっと見つめながら走った。不思議な感じだった。本来なら前を行く集団の中にいなければならないのに、好き勝手に集団から飛び出している。人とは違うということが自分の存在を明確にさせる。不安はあるが心地良い。気分的に楽だ。チンタラ走っていたから余力も十分だった。私は驚異的なスパートで一気に先頭走者に並んだ。 奇策ではない。 いつも常識が正しいとは限らない。思いのまま走っただけである。 結果、私は負けなかった。だが勝つこともなかった。 同着だ。 タイムは悪かったらしい。だから先輩は怒った。何もわかっていない。そんなことはどうでもいいのだ。 佐野元春 - VISITORS この作品を奇策と言うなかれ。ここまで思いのまま作られた音楽はない。そして未だに日本人はこのアルバムを超えていない。 |
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| DAVID BOWIE ZIGGY STARDUST 1972 |
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ある特定の年代の人々に共通して言えること。それは砂場で友達相手に人間風車の練習をしたことであり、学ランの内側がキラキラと光っていたこと(玉虫ね)であり、未だに街中でポルシェを見ると「おっ、スーパーカー!」と叫んでしまうことであろう。しかし究極はデビッド・ボウイになりたかったことである。よろしいでしょうか? ボウイのようにではない。ボウイそのものになりたかったのである。 ダンディズムの裏に隠された変態性と、神話の中に響く劇的な爬虫類声。築いたスタイルを創造しては破壊する、変化に満ちた芸術精神。本音と建前の境界でニタリと笑ってみせたりもする。「どう? ふふふ」てな感じで。そして「私達は英雄になれる」などと歌うのである。 多感な少年少女たちにとってはたまらなかった。 当時、フラフラした中途半端な少年であった私は 「お前は将来何になるんだ」と教師に説教され、 「僕は将来デビッド・ボウイになります」と即答して殴られたものである。 残念ながら私はボウイになることができなかったが、ボウイと出会ったおかげで、大変遠回りの人生を歩み、それゆえに普通に生きていては経験できなかったことも、いくつか経験できたんじゃないかと思う。 それだけでも十分に「幸せな犠牲者」である。 ボウイに会ったら言うことにしよう。 「手を差し伸べてくれて、ありがとう」と。 |
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| GO!GO!掛布 遠藤良春 1977 (7inch EP) |
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「今年は優勝や!」 一年間でもっとも幸せなオープン戦期間が終わり、例年の合言葉を口々に阪神ファンのペナントレースが始まる。桜、鯉のぼり、紫陽花・・めぐる季節が僕たちにとって非情なことぐらい承知している。来年を想う季節なんて、ずっと来なければいいのに・・せめて野球をやっているあいだは。 阪神タイガースは常に僕たちと一緒にいた。 野球帽と背番号入りのTシャツがあれば、カラーバットを振るのにも力が入った。テレビは必ず野球中継。蚊取線香が燃え尽きても眠る気にはなれなかった。ときどき親父が大声をあげたりした。ラインバックは粋な奴だったし、江川の代わりに来た小林は男の中の男だった。だけどずっと阪神は弱かった。出会ったときタイガースは僕たちに多くを教えてくれる先生だった。やがて共に歩む友人になった。いつしか出来の悪い息子に見えた。関係は変わっていったが距離はいつまでも変わらなかった。その愛しい奴は常に僕たちの目の前から消えることはなかった。 85年10月16日、9回表、掛布はレフトポールに直撃する芸術的なアーチを神宮の夜空に描いた。無表情でダイヤモンドを1周する、ミスタータイガースの背中は無言で僕たちに未知なる「心」を説いた。それははかりしれないほど美しく、この世のものとは思えぬ気高さがあった。まだ1点差で負けていたけれど、もう僕たちは泣いていた。涙の向こうにはセンターの頭を超える岡田の打球が見えた。 甲子園のスコアボードから「4番サード掛布」の名が消えるのは、それからしばらくのことだ。そこに淋しさや辛さはなかったけれど違和感が残った。違和感は時を経て痛みに変わり、どしりと胸の奥につかえた。掛布のいないタイガースは僕たちの知っている愛しい奴とはどこかが違うのだ。僕たちにとっては、あの無表情の「31」こそが阪神タイガースなのだ。 |
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| SION 新宿の片隅で 1985 (12inch LP) |
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生まれて初めての東京観光。 振り返ってみるとおぞましい光景しか蘇らない。16歳の少年が思いつくことといえば、観光名所をハシゴすることぐらいである。くもの巣のような路線図の上、ガイドブックを片手にもがく小さな虫たちは、東京タワーに始まり、ディズニー、皇居、パンダ、西郷さん、神田川、果ては亀有公園まで巡った。今でも家の机には当時の思い出がしまってある。青山や六本木で集めに集めた喫茶店のマッチと、方々で撮りまくった無数の写真。そこには原宿駅の前でピースサインした友人や、武道館をバックに永ちゃん気取りの私が写っている。出来ることなら消し去りたい思い出である。 最後に寄ったのがまだ都庁が移る前の新宿だ。閑散とした西新宿の高層ビルのすみっこで友人がポツリつぶやいた。 「人がおらん」 新宿という街は端から端までが新宿駅だと思っていた。洪水のように人があふれ、そのすべての人々が猛スピードで歩いている街。ネオンとアルコールと欲望が渦巻き、静まることのない街だと思っていた。しかし私たちの目の前の新宿は死んだように眠る街だった。誰もいないオフィス街ではくすんだ夜空を見上げるぐらいしかなかった。 翌朝、駅からオフィス街に押し寄せる人間の群れを見た。恐ろしいほどの数の人間が無言で足早に通路を滑る。まるでエキストラだけの行進のようだった。旅行鞄を持った場違いな私たちは人々の流れとは逆方向に歩きながら、本当の東京を見たような気になっていた。 新宿の片隅ってどこだろう? SIONが触れた新宿って、どんな街だったのだろう? あの頃を振り返って、ふと考えさせられた。 |
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