| THE KINKS SCHOOLBOYS IN DISGRACE 1975 |
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この世に生を受けたアルバムの中では「名作」と呼ばれる作品より、「クソCD」と罵られる作品の方が多い。なぜか? 思うに「名作」は名人によって作られ、カスなどには足元にも及ばぬ才能が要される。しかし「クソCD」はカスだけの腕によるものではなく、驚くことにその大半がかつて「名人」と呼ばれた伝説上の人物たちによって生み落とされる。製作者の絶対数の違いと、産業音楽界の仕組みによってもたらされた産物、それがこの世にあふれかえる「クソCD」の実態である。 近年、転石や昨日マンの新作が出る度に、私はダメだダメだと自分に言い聞かせながらも、中毒患者のように手を伸ばしてしまう。お決まりのツアーが始まり、LIVE ALBUMが発売されると、頭を抱えながらも内股気味にレジへ向ってしまう。そんな自分が嫌で仕方ないのだが、こんなことが10年以上も続くと開き直ってしまい、「やっぱりクソはクソでしかなく、クソだけのために存在し、クソらしく葬られ、クソだということに気付かれず忘れられるべきである」などと結論づけてしまう。 ザ・キンクス - 不良少年のメロディ。 彼らの活動歴においてもっとも恵まれなかったRCA時代の最終作である。 スポットライトに照らし出された少年が後ろを向いてケツを出している。背後にはムチを手にした人影。少年の淋しそうな瞳からは涙がこぼれている。これが何を意味するのか・・この少年がこれから「クソ」をするところでないのは明白である。しかし明らかに少年の目は「クソッタレ」と呟いている。それは肉じゃがマンや昨日マンに向けて放たれたものではないだろうが・・。 レイ・デイヴィスという達人が「ただ楽しかったときのことだけを考えなさい」と告げて幕を開ける本作は、ノスタルジックな想いに包まれた肌触りの良いアルバムだ。キンクスはセールス的にも決して恵まれたとは言えず、そのコンセプトの難解さからも敬遠されがちなバンドであった。しかし「クソ作品」を作らないバンドでもあったのだ。そのためかもしれないが、いや、絶対にそれが理由に違いないが、このRCA時代のアルバムなど入手困難な時代があった。この人達は音楽業界という海をアメンボのようにスイスイと泳げるような器用な連中ではなかったのだ。ようやく入手した状態の悪いLPを何度もターンテーブルに乗せ、この英国人のメロディに耳を傾けられた私はラッキーだった。目の前を通り過ぎていく前に、アルバムの方から立ち止まってくれたのだから。日々、数え切れぬほどの「クソCD」が音速で通過していく今、心底そう思う。 私が泣きながらケツを出すCD屋にならずに済んだのも、このアルバムのおかげかもしれない。 |
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| 早川義夫 かっこいいことは なんてかっこ悪いんだろう 1969 |
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かつて私には凄まじき執念を持った友人がいた。彼の名はペケポン。坊主頭が似合う小汚い昭和のガキだった。彼の凄まじき執念とは、カッコ良さに対するこだわりにあった。 ある日の帰り間際、突然、激しい雨が降り出した。 私たち、教えに忠実な子供たちは置き傘を広げ、何事もなかったかのように帰路についた。そんな雨の中、ペケポンはひとり、傘をささずに雨に打たれ、ずぶ濡れになりながら私たちの横を歩いていた。ああ、彼は置き傘を忘れたのだな、そのときはそう思う程度だった。 翌日も昼から雨が降りだした。多くの子供たちは雨は降らずとも、傘を持参して登校していた。しかし相変わらずペケポンは雨に打たれている。 「ペケポンくん、風邪をひくわよ」と先生が言った。 返す彼の言葉に私たち傘をさしていた者は驚愕することになる。 「雨に濡れて歩くのがカッコええんじゃ!」 シビれた。まるで全身に電気が走ったかのような衝撃が私を襲った。その衝撃は幼い私が初めて知る「男」の生き様であった。 私は傘を閉じた。他の友人も倣った。ペケポンと私たちはガハハと笑い飛ばし、雨の中、家に帰った。 公園でブランコに乗っていたときのこと。ペケポンは普通に前後に反動をつけるだけでは満足できず、ブランコを左右に漕いだ。当然のごとく、彼のブランコは隣りのブランコと衝突した。空が割れんばかりの奇声をあげ、ペケポンはブランコから飛び降りた。彼は横のブランコを吊るすチェーンとの間に自分の指を挟んだのだ。アメリカンドッグのように腫れ上がった指を見せてペケポンは「折れた!」と宣言した。その姿はまさにアクラム・ペールワンの腕を折って叫んだアントニオ猪木の生き写しであった。 翌朝、怪我した指を割り箸で挟み、輪ゴムで固定したペケポンの姿があった。 「こうしといたら治るんじゃ!」 時代はペケポンと共に流れていた。風はペケポンに向って吹き、花はペケポンのために咲いていた。私はペケポンの粋な笑顔に涙さえこぼしそうになった。たとえテストが18点でも、いつもハナクソを丸めていてもペケポンは英雄だった。 ただ時間が過ぎ、冷静に考えると、ひとつの答えが私の脳裏に渦巻く。 「あいつは単にバカなだけじゃないのか?」 雨に打たれるのも、骨折を割り箸で直すのも、道端のウンコを踏むことで勇気を示すのも、頭が割れるまで頭突き合戦するのも、普通に考えればアホなだけじゃないのか、と。いつも得意気なペケポンの顔を見ていると、そんなことは言えなかったが・・。 二十歳の頃、偶然、ペケポンと再会した。暑い夏の日、私が家の前でダブルソーダを食べていると、カッコいいスポーツカーに乗った二十歳のペケポンが、ガラス越しに指を2本立てて「よぉ」と笑っていた。カーステでジョージ・マイケルなんぞ鳴らしながら。助手席にシャンプーの香り漂うキュッとした姉ちゃんを乗せて。 おいおい、違うだろうが、俺はそういうことにシビれたんじゃないんだよ。 紙一重か裏表か。 カッコ良さとカッコ悪さの謎を残してスポーツカーは走り去った。 あれから奴を見ていない。 |
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| ERIC CLAPTON SLOWHAND 1977 |
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最近あまり耳にしなくなったが、70年代には世界3大ギタリストと称された男達がいた。エリック・クラプトンとジェフ・ベックと・・あとひとりは誰だっけ? まあ、いいや。中でも私がもっとも深く関わったのがエリック・クラプトンである。関わったといっても酒を酌み交わしたり、弾き方を教わったわけではない。ヴェンチャーズやスタン・ハンセン並みに来日すれば、当然こちらも会場に足を運ぶ機会が増える。たいして構成も変らず、メンバーも毎回一緒。前回と前々回のライヴの違いなど誰ひとり指摘できず、あげくの果てに何時、何回観たのかも把握できなくなるようなものであったが、クラプトンのライヴにハズレはなかった。 蓄積された経験というのはデカイものである。 何度も死地から生還して、自分だけが生き残ってしまうと、人はここまでデカくなるのかというぐらい、クラプトンの懐は深くなっていった。死んでいった者たちの怨念が憑依したかのようにギターが泣いて泣いて泣きまくる。ああ、恐ろしや、恐ろしや。 ただ、今でこそ神様呼ばわりされて人の良さそうな顔をしているが、どちらかというとこの人の性根は悪魔に近い。星一徹ばりに頑固なちゃぶ台ひっくり返し親父なのである。だいたい客が呆れてあくびしているというのに、延々30分もブルースのインプロビゼーションを笑いながら演るのである。その間、一度として客を見ない。ドラムセットを囲んでみなさん楽しそうに話し込んだりする。3時間超のライヴが終わって、数えてみたらメニューは16曲だったり。 チロチロとしか弾けないジョー爺・ハリスンの横で、長刀でも振り回すかのように弾きまくるクラプトンってのもあった。クラプトンの凄さだけが印象に残るジョー爺の復活公演。あれじゃ、リハビリ目的だった病み上がりのジョー爺が気の毒ってもんだ。最初からオイシイところをさらっていく気だったんだろうけど。 でも近頃、元気がなくなってきたんじゃないかな? 引退説なんかささやかれたりして。ワレがワレがと出てくることも減ったし。そうなるとチト淋しい。エミネムやリンキン・パークと張り合えとは言わんが、せめてジェフ・ベックの芸能生活50周年パーティーで、ベックのケツを杖でしばきまくるぐらいのことはやってほしい。ジミー・ペイジの葬式で号泣するクラプトンなんか見たくない。 |
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| 嶋大輔 大輔命 1982 |
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本棚を見渡せば、その人の人となりが分かるとは、よく聞いた話である。ではレコード(CD)棚を見渡せば何が見てとれるのであろう。音楽の趣味は読書のそれより、単純明快にその人の潜在的な性格やセンスを察することができるのではなかろうか。私の場合、そこは他人に覗かれては困る領域であったりする。隠していたエロ本を親に見つかるより恥ずかしい過去の出来事が埋もれていたりする。 どれどれ、どんなものが見つかるやら、と久々にレコード棚を見渡す。 我が家のレコード棚は邦楽と洋楽でキッチリ分類されているのだが、見ていて楽しいのは断然邦楽である。何を思って杉浦幸なんて買ったのだろう。ザ・バッヂなんてグループを憶えている人はいるのだろうか。 ありゃ、何だ、こりゃ。 両横のレコードに貼り付いて取り出せない。しょうがない。 せーの、バリッ! ん? どひぇー! 私、思わずのけぞりすぎて後頭部を痛打してしまいました。まさに1人エベレスト・ジャーマンです。 しかし、何ですか、これは! えらい格好です。革ジャンはいいとして、このズボン。今や天然記念物並みのジーボンですよ、あなた。その頭、何ですか、スニーカーでも洗うんですか。その目、何ですか、何が不満ですか。まさかあなたは超獣戦隊ライブマンじゃないですよね、ウルトラマンコスモスのヒウラ隊長でもないですよね? して、題名。「大輔命」。どえらいセンスである。 針を落とす。やはり聴いてみたいのは「男の勲章」ですね。 歌詞カードを見ながらではあるが、フルコーラス歌えるところが、私もお茶目な34才である。この曲、ありがちな全開バリバリソングの印象があったのだが、なんのなんの、ガガガSPも真っ青のセンチな青春謳歌であった。路地裏から見た流星に誓った思いを胸に、やったるぜ父ちゃん、ワイは負けへんで、と時の重さにも流されず生きていく世間知らずのバカの歌である。 思えば当時の儚くも美しいヤンキーたちは、毎日この歌を口ずさみながら自分を奮い立たせたものである。何だかんだと理由をつけては頭頂部付近まで攻め込んだソリコミ。ますます実態を失っていく眉毛。変幻自在に操られた痰唾の舞い。しかし彼らは何をツッパリ、何に対してツッパリ、そして何故ツッパったのか。その回答を得るにはすでに時遅し。今や33回転で回る塩化ビニールの溝を覗き込むことでしか謎を解く鍵はない。だが、かつて「盆地に咲くシクラメン」と恐れられた私でさえ、知りたくない真相ぐらいはある。ああ、レコード棚とは恐るべき領域であった。 |
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| BEACH BOYS PET SOUNDS 1966 |
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ある夜の光景。逃げ惑う若い女の悲鳴、背後には追いかける男の咆哮。乱れた長い髪、酒臭い息。私は腕を組みながら、そんな場面を見つめていた。何を隠そうそれは当店の売り場で起こった出来事である。 「よーし、CDを買ってやろう、何がええんや!」 「KinKi Kidsがイイーっ!!」 「これにしとき、セックス・ピストルズ! え? 知らん? ロックの歴史を変えた革命的なアルバムや!」 「興味ナぁぁぁい!」 「ほな、これ! レッド・ツェッペリン! これぞロックの歴史を変えた革命的なアルバム!!」 「生まれてナぁぁぁい!」 「これや! ブルース・スプリングスティーン! これこそロックの歴史を変えた・・」 「洋楽だったらt.A.T.u.がイイーっ!!」 そんな鬼ごっこが店内で続くこと約1時間。私は延々とつづくロック講座に耳を傾けながら、10年ほどの間に65回ぐらい変わったロックの歴史の重みを知る。劉備玄徳も真っ青である。 しかし男の息がクサイ。声がデカイ。返事があるまでずーっと喋りつづける。革命的、革命的、革命的。 女の香水もクサイ。ヒールで床が傷つく。意地でも男の問いかけに応えない。知らナぁぁぁい、興味ナぁぁぁい、生まれてナぁぁぁい。 ポツリと、私はカウンターで呟いてしまいました。小声で。 「死ね・・」 !! ああっ、なんてバチあたりな! よりによって、お客様に。でも気持ちいいな、もう一回、言ってみよ。 「死ね」 ううう、快感。なんて痛快な一言。 しかし、あんさん、忘れちゃいないか、アレを。チミもチミだ! ナぁぁぁい、ナぁぁぁい、言いやがって。じゃあ死ね! チミが死んでもどうってことはない。穴は塞がる。マンホールでさえ蓋がある。でもブライアン・ウィルソンの穴は簡単には塞がらんゾ。 「すみませーん。このCD、3000円もするの? 500円ぐらいにまからない?」 死ね。 「もしもーし、明日発売の○○のCDの中古ない?」 死ね。 「あのさぁ、△△の未CD化の曲が入ったCDない?」 死ね。 1度ぐらい言ってみたいよなぁ。言えるわけないよなぁ。ああっ、バカバカバカ、このおバカさん。 KinKi KidsのCD、2枚お買い上げ。960円。そして夜は更けていく。ありがとうございました。 |
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| スガシカオ CLOVER 1997 |
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近年、弁当と言えばコンビニで買う。「チン!」という間にホクホクに暖かい食事に巡りあえるのだ。かつてコンビニ弁当といえば、マズイ、高い、仕方ない、とゴロは良いが使えない商品の代表格であったが、ここのところの進歩は凄まじいものがある。今や弁当の味がコンビニの勝敗を左右するというだけあり、どのFCチェーン店においてもハズレがない・・どころか驚かんばかりの出来映えである。 そこで苦戦を強いられるのが手作り弁当。私など弁当といえば、そちらが思い浮かぶクチ。学校では給食だったこともあり、弁当を食う機会は遠足のときぐらいしかなかった。リュックの底で傾いた弁当箱、おかずの汁が染み込んだ御飯、ふやけたのり玉ふりかけ、冷たいハンバーグ、色を添えるためだけの切ないチェリー。まさに愛と哀しみの昭和物語である。 決まって私は最初に御飯を軽く食べる。これは大事なことである。まず御飯を少量食することによって、ああ、これから弁当を食べるんだなぁと自分に言い聞かせつつ、感慨にふけるのである。次が難しい。ふた口目は本格的な食事の始まりであると同時に、弁当箱に勢揃いした役者たちの中から、記念すべき第一指名者を選ぶのである。ひとつ間違えば、その食事を、楽しい遠足を、ひいては自分の将来そのものを台無しにしてしまう可能性があるのだ。慎重すぎるほどの考察を要する選択である。 私が出した結論は玉子焼きである。明らかに一際目立つ色彩でありながら、その庶民性と素材の値から見過ごされがちな弁当の常連。だが玉子焼きほど一筋縄ではいかない者はいない。かつては巨人、大鵬と並んだ子供達のヒーロー。しかし近年、外来食に押されがちなその実力者は、弁当箱の中で、または食卓で、来る日も来る日も送りバントを繰り返す毎日。しかし過去の栄光と誇りを失うことなく、傾いた弁当箱の中で、会話の途絶えた食卓で、ふんわりまろやかと佇んでいる。暖かくても冷えていても、毎度お馴染みの安心感漂うお袋の味。これぞ職人の仕事と思わせる微妙な焦げ具合。頑固親父の骨っぽさを感じさせる味わい。やれ、マヨネーズだ、ケチャップだでごまかされる連中とは役者が違う。 私は自信を持って玉子焼きに箸を伸ばす。 90年代、CDバブルと呼ばれた時代、様々なアーティストが現れ、音楽界を彩った。だが時が経つと飽きられ、景気が悪くなるとリストラされ、結果的に大半のアーティストがペンペン草にもなれなかった。残った僅かなアーティストの中、職人のこだわりと骨っぽさを持つ男、スガシカオ。そのアナログな佇まいを日本音楽界の玉子焼きと呼びたい。 |
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| 船戸与一 蝦夷地別件 1995 |
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小学生の頃、学芸会で私のクラスはアイヌの劇を演じた。藁半紙に刷られた厚い台本を手に、チビッコイ役者どものへたっくそな芝居の練習を毎日見せつけられたものである。 私の担当は美術係。 舞台で使用する草木や家屋の絵を描き、ベニヤ板に貼り付ける。セリフ覚えに苦心する級友たちの姿を尻目に、毎日せっせと絵筆を走らせていた。もちろん私にセリフはない。舞台の上で照明を浴びることも、拍手をおくられることも・・。 なんせ私は美術係。実をいうと志願した。 あれから二十年以上経った現在、その物語のあらすじすら記憶にない。おそらく悲しい話であっただろう・・。うぅ、スマン、私がアホであった。 船戸与一は私にとって特別な作家といえる。「山猫の夏」「猛き箱舟」の時代から船戸作品は何物にも代え難い衝撃として私の臓腑を打ちつけた。そのどれもに言えることは「生」と「死」の繋がりによってもたらされる儚さ、切なさ、痛み、そして素晴らしさを伝えてくれる作品であったということ。新作が出れば気になって仕方がない。 そしてこれは船戸与一が放つ18世紀末のアイヌの蜂起を題材にした歴史小説である。幕府、松前藩、飛騨屋、ロシア、ポーランド、多方面から渦巻く思惑の中で揺れ動くアイヌが民族の尊厳と未来のために蜂起した国後目梨の乱を描いている。和人71人を殺害するも反乱は鎮圧され降伏するアイヌ。別れの言葉を残して処刑の場に向う戦いに敗れた若き長人たち。 「俺達は望みを残して死んでいける!」 (T_T)ただ号泣である。 そして最後に・・ああっ、ウウーッ・・、なんと! この作品を読み終え、私は小学生時代の学芸会を思い出して、本棚のかどで25回ぐらい頭を打ちつけたくなった。あのとき、あの劇で、私たちはアイヌの何を物語っていたのだろう。スマン、誰か私に教えてください。ちなみに私は京都市立山階小学校出身である。 |
| JANET JACKSON JANET 1993 |
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「しゃ、社長ーっ! ついにやっちゃいました!」 「なんだね、ハゼドンくん、サマワから帰ってきたのか?」 「あたしゃ、自衛隊ですか!」 「鍋の季節は終わったよ。ちなみに忘年会はぶりしゃぶ、新年会は鴨鍋だ。君がおらんから盛り上がったよ」 「何を言ってるんですか、社長。聞きましたよ、お別れパーティだとか言って吉○家で泣きながら牛丼食ってたそうじゃないですか。おまけに団体割引しろとかごねたそうですね。バイトの子が泣いてましたよ」 「グゥゥゥ・・」 「寝るな!」 「で、なんだね?」 「大変です、ついにジャネットさんが乳ポロリです!」 「なぬ?」 「スーパーボウルのハーフタイムショーでベロリンチョ!」 「許す」 「し、しかし、社長、全米が注目するスーパーボウルで」 「構わん! ゆ・る・す!」 「新作発表前ですからねぇ」 「なんとなく隣りのチイちゃんを思い出すのだよ」 「誰ですか?」 「チイちゃんはがんばり屋さんでな、なんせ父親がアル中、母親が病弱ときとる」 「どこにでも落ちている不幸話ですね」 「兄がチンピラ、弟がアホタレ、ハナタレでな」 「で、整形するんですか? おまけに自家用遊園地を造ったりして」 「近所の大人はみんなチイちゃんには幸せになってほしいと思ったのだよ」 「シリアスな話ですね。エロハゲと呼ぶことをやめます」 「しかし、ある日、チイちゃんは宝くじに当たったんだよ」 「良かったじゃないですか! 3億円ですか?」 「組違い10万円」 「あら・・」 「しかし棚ボタとは怖いもんでな、降ってわいた10万円を手にしてから、チイちゃんは変わってしまった」 「金に走った訳ですね」 「腎臓を売ったりしてな」 「じ・・!」 「不幸な家庭に生まれた女の子にはがんばってほしいとワシは常々思っとる」 「ジャネットさんは幸せそうですよ」 「乳ぐらいでヤイヤイ言ったらいかん!」 「これです」 「立派だ」 「こういった人たちは大変です。売れることが何よりも重要なのですから。どれだけ良いモノを作っても、内容について語られることはあまりありません」 「この人のミルクをたくさん買ってあげなさい」 「彼女は歌手です!」 「アッパレ!」 |
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| LLOYD COLE LLOYD COLE 1990 |
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授業で「町」の地図を作ったことがある。 一枚の大きな画用紙の真ん中に「大通り」がひかれ、道が交差し、川が流れ、電車が走った。駅前には馴染みの店が立ち並び、「僕」や「私」の家が白紙の画用紙に順番に埋められていった。 しかし幼い記憶を持ち寄って作られた「町」は隙間だらけで、およそ「僕や私」の住む町とは違って見えた。 より充実した地図を作成するため班ごとに取材へ出掛けた。ノートを片手に店や郵便ポストやバス停、工場やボーリング場、学校、公園、そしてなんにもない空き地などの位置を事細かに調べ、翌日、学校で収集した情報を地図に書き込んだ。 そうして出来上がった僕たちの「町」はクラス替えが行われるまで教室の壁に貼られていた。 私が生まれたのは発展途上の小さな町だった。 人も家も店も少しずつ増えてゆき、町が出来上がる様を目の当たりにしながら成長していった。まるでジグソーパズルのピースが埋められていくように、私と町は少しずつ完成形へと導かれていた。 だけど私の心はいつしか「町」から「街」へ流れていった。 もう「町」では遊ぶこともなく、出会う人もいない。成長の速度は、あのとき作った画用紙の枠をすぐにはみ出させてしまった。 「町」は僕が思う存分生きるには狭苦しくなっていたのだ。 「昔はね・・」と言って思い出を語ろうとすると、その話は大概「街」の話だ。多くの時間を街で過ごし、楽しいことや悲しいことを繰り返し、得ては失い、拾っては捨ててきた。 「街」の音楽を聴いていると、たくさんの思い出が脳裏をよぎる。 時間をさかのぼり、思い出と対話しているとキリがない。そしてどこまでも行くと、やがて「街」と「町」の境界線に出くわす。 ある時点でピタリと時間が止まったままの「町」には、意識しなければ思い出せない出来事や、すっかり忘れてしまった友達がいる。 流れた時間を計算してもシワが増えるだけだ。 出来ることなら時間の波を泳ぎ、あのとき何も考えず置き去りにした「町」へ戻って、自分がどれぐらい大きくなったのか感じてみたい。画用紙の中に書き込んだ僕たちの「町」は、今でも僕が知ることのできる場所として、そこに存在しているのだろうか。 「街」の音楽の中には確かに「町」の残り香が漂っているのだが・・。 |
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| V.A. LIVE AID 2004 |
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「ライヴ・エイドのDVDが出てるよ、コタローちゃん」 「うーん、レーザーディスクでも出してくれないと観れないなぁ」 「古いな、コタローちゃん。俺んちはVHDだったけどな」 「よーし、ウチのバカ息子のプレステで観るっちゃ!」 (おとーちゃん、やめて! 壊れる!) 「うるさい、ハナタレ! 早よ、寝え!」 (ビシッ!) (ビエ〜ン!) 「さあ、観よう、コタローちゃん。おおっ、チャプターで好きなところから観られるぞ。誰が観たい?」 「ディラン」 「いきなり大トリかよ! ほれ、緞帳の前で3人突っ立ってるよ」 「ほとんど、かしまし娘だな。しかし後ろでフィナーレの準備してるの丸わかりだもんな。誰も歌なんか聴いてねえよ」 「ハイ、次、U2ね」 「おおっ、伝説の学ラン! まあ、おもろいぐらいに顔がデカイ。大豪院邪鬼かと思ったぞ」 「U2はこの頃が一番人気あったな。ポール・ウェラーもおもろい顔してるな」 「歯磨き粉食って育った顔だな」 「なんだ、このハゲ。カッコいいじゃん」 「スティングだよ。ハゲが目立たないように競演してるのがフィル・コリンズとマーク・ノップラーだもん。ケツの穴の小さい奴だ」 「ケツの穴といえばエルトン・ジョンとワムが演ってるぞ」 「なんだよ、穴の貸し借りか?」 「ライヴ・エイドで競演が流行ったんだよ。ミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイとか」 「ああ、CとSとNとYも復活したよな」 「ホール&オーツとテンプテーションズな」 「まあ、バンド・エイドもUSA for アフリカも競演企画だからな」 「ロンドンのフィナーレにビッグ・カントリーが映ってたような気がするんだけど?」 「俺も見た。幽霊だな」 「あれえぇぇ、そういえばロバート・プラントとドラえもんのジョイントが入ってないじゃん!」 「藤子・F・不二雄が死んだからな、版権の問題で出せなかったんだよ」 「唯一の笑いどころがお蔵入りかよ!」 「ジミー・ペイジが抗議したのかもな。自分のいないところで『天国への階段』演られたら気分悪いだろ?」 「ダブルネック持ちゃぁ、ジミー・ペイジも21エモンも同じだよ」 「そういえば・・・あれっ、コタローちゃん寝てるよ」 「俺もあのとき途中で寝ちまったよ。だからレイフ・ギャレットを観てねぇんだよなぁ」 「出てねえよ!」 「エマニエル坊やも?」 「出るかよ!」 「ベッツィ&クリス・・・」 「あの人は今じゃ、ねえんだよ! それより神田川が出てこねえな」 「神田川出てたのか、まるで料理の鉄人だな」 「アホッ! 神田川といえばこうせつだろ。ライヴ・エイド15時間のうち半分はこうせつと逸見さんの噛み合わないトークだったんだよ」 「なるほど、それがウケて『HEY HEY HEY』あたりが作られたわけだな」 「だけど今になってライヴ・エイドの映像を見られるとは思わなかったよ」 「うん、次は中津川フォークジャンボリーだな」 「それ番組中にマーチンが言ったボケだよ」 「えっ、中日の4番の?」 「誰も憶えてねえよ、そんなの!」 「優勝メンバーだよ」 「いつの時代だよ! それよりコタローちゃん起こせよ!」 「コタローちゃん、終わったよ。次、コタローちゃんの好きな人妻物だよ」 |
| 出演アーティスト BOB DYLAN DAVID BOWIE MICK JAGGER U2 QUEEN PAUL McCARTNEY MADONNA ELTON JOHN THE WHO ERIC CLAPTON NEIL YOUNG BEACH BOYS STING TINA TURNER BRYAN FERRY DIRE STRAITS BRYAN ADAMS JOAN BAEZ KEITH RICHARDS RON WOOD PRETENDERS TOM PETTY GEORGE MICHAEL HALL & OATES INXS C.S.N.&Y. PHIL COLLINS STYLE COUNCIL BLACK SABBATH SADE STATUS QUO ELVIS COSTELLO THE CARS DURAN DURAN BOOMTOWN RATS ULTRAVOX PATTI LABELLE 他 |
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| 沢田聖子 Acoustic Love Ballads 1997 |
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「俺、生粋のパンク少年だったんだ、昔」 「タイヤに釘でも刺してたのか?」 「違うよ、レザーパンツにチェーンで唾吐いて、危険な匂いをプンプン撒き散らしてたんだよ」 「傍から見りゃぁ、ロード・ウォーリアーズの逆襲ぐらいにしか映らなかったんだろうな」 「でも実のところ沢田聖子が好きだったりしてな」 「出た。確かに危険な匂いだ」 「我慢できなくて一人でコンサートに行ったんだよ」 「うん、お前は十分にヤバイよ。パンクのかがみだ」 「外の落とす球で決めるには、3球目をインハイで仰け反らせなきゃいけないんだ、分かるか?」 「分かんねえよ、卓球の話は」 「野球だよ! そこに踏み込まなければ得られない。でも踏み込んだが故に失う可能性もあるわけだ。そこで躊躇するようじゃ天下は取れない。諸葛孔明が言ってた」 「言ってたか?」 「たぶん」 「で、それが富沢聖子と何の関係があるんだ?」 「沢田聖子だよ。ただな、俺はあの会場で何かを失ったような気がするんだ」 「今、その話をしているだけで、俺の中でお前という人間の形が崩れていってるぞ」 「ステージの端にピアノがあるんだ」 「真ん中に置くと邪魔だからな」 「俺の席も端でな」 「真正面で観られたわけだ」 「目の前のPAが邪魔で何も見えないんだ」 「はぁ?」 「ピアノの音と歌声だけが聞こえるんだよ」 「ん?」 「不覚にも俺は泣いてしまったんだ、泣く子も黙るパンク少年の俺が!」 「おもろい。で、その泣く事を忘れて子供を唖然とさせてしまうデモリッションズのお前はその場でどうしたんだ?」 「周りを見渡すとみんな俺を見てるんだ。絶対にコイツらとは友達になりたくないってタイプの奴らが、『コイツとは友達になりたくない』って目で俺を見てるんだ」 「なんか沢田聖子が不幸に思える話だな」 「あのあたりから俺は優しくなりだしたんだ」 「じゃあ、金返せよ、早く」 「お前は優しくないよ。コタローちゃんはこの話を聞いて深く頷いていたぞ」 「居眠ってたんだろ?」 「で、あれだ」 「何だ?」 「沢田聖子だ。いいんだよ、今、聴いても」 「泣くのか?」 「チョットだけ」 |
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| 小松政夫 小松の親分 1995 |
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「錆びつくくらいなら、燃え尽きたほうがいい」 ニール・ヤングの「Hey Hey,My My」の一節である。カート・コバーンが遺書で引用したことでも話題になった。 カッコイイ文句である。ただ、これを言葉だけでなく実践するところが、「GOD」と呼ばれるニール・ヤングの素晴らしいところである。燃え尽きて灰になり、懐かしの河原町のジュリーと見間違えるような身なりになっても、未だにニール・ヤングをやっている。まあ、40年前からニール・ヤングをやっていたりしたのだが・・・。 89年の来日公演。「My My,Hey Hey」を弾きながら登場したのには驚いたが、「Heart of Gold」を弾きながら退場するという場面には凍りついたものである。まるで横丁に現れた流しのオッサンのように小さく横に揺れながら去っていく背中は、冷え切った客席に「してやったり」と満足したのか、ハズしたことに落胆したのか判別つかぬほどニール・ヤングであった。 私は伊東四郎や小松政夫のコントを観に行った訳ではない。 「ROCK LEGEND」と呼ばれる男の文字通り伝説の一頁を目にするためその場にいたのだ。誰が笑いをとる「ROCK LEGEND」を期待したというのか。脱力感に苛まれ拍手ひとつ起こらない冷え切った会場で、見てはいけないものを見てしまったという罪意識に襲われていた。 しかし思えば伝説の男たちは私の肉眼に様々な罪を刻んだものである。 レイ・デイヴィスのアクションは欽ちゃんそのものだったし、ポール・ロジャースの握られたこぶしには五木ひろしがダブって見えた。アート・ガーファンクルの頭は玉子巻きのようであり、ジェネシスはレッツゴー三匹にしか見えなかった。 言ってはいけないような気がして今日まで言わなかったが、間違いなく彼らは痛い。 ただ、「ボケ」で済まされるところを「伝説」に変えてしまえる懐の深さ、それがデブでもハゲでもなく「変人」と讃えられる所以である。 思えばカート・コバーンはまだ青かった。ボケることも出来なければ、死ぬこと以外で伝説も作れなかった。 「干物にされるなら刺身で食われたい」ぐらいは言って欲しかったものである。 我が国の音楽界にはどんな「ROCK LEGEND」がいるのだろうと考えてみたが、まったく名前が思い浮かばない。 小泉純一郎、長島茂雄、アントニオ猪木、大川慶次郎と危険極まりない人間は多々いるが音楽界には見あたらない。 ニール・ヤングとタイマンを張れる「伝説の男」 。 やはりあのとき脳裏によぎったベンジャミン伊東と小松の親分さんが我が国最強の「ROCK LEGEND」ではなかろうか。 「ズン」と「ニン」で「My My,Hey Hey」に太刀打ちできるし、「しらけ鳥音頭」曲中の「あ〜ねぇ〜」の一言から得られる脱力感は「Heart of Gold」退場場面の比ではない。 TVがある種のいかがわしさを残していた良き時代の最後を飾る大傑作と呼ばれる「小松の親分」。 そこに宿る人の迷惑を顧みないナンセンス・パワーの凄まじさは「ROCK LEGEND」そのものである。ニール・ヤングもビビるであろう。 |
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